2025.01.17(金) 事務局からのお知らせ
星野英正―― ゴルフ界のリーダーが描くスクランブルゴルフの未来
「この大会が、ゴルフの新しい楽しみ方を示すきっかけになれば」。
大会ゼネラルプロデューサーを務める星野英正は、落ち着いた口調でそう語る。
その声からは、確かな自信と新たな挑戦への強い意志が感じられた。
国内メジャー1勝を含むツアー通算4勝を挙げ、アマチュア時代に52冠を獲得した“ゴルフ界の天才”が、いま改めて挑戦しようとしているのは、ゴルフの新たな未来をつくることだ。
当時、日本のゴルフ界を象徴する存在となった。その挑戦の原点はどこにあったのか。アマチュア時代の栄光、東北福祉大学で築いた礎、そして幼少期の厳しい練習の日々。すべてが星野を形作るピースとなっている。
アマチュア時代――栄光の52冠と日本アマ3勝
「勝つことへの執着心は、この頃に培われた」と自身が語るように、その歩みは圧倒的な実績の連続だった。1996年、98年、99年と3度にわたり「日本アマチュア選手権」を制覇。特に96年の同大会では、2位に15打差をつける圧巻のゴルフを披露した。
それだけではない。97年の「日本オープン」ではローアマチュア(アマチュア最上位)の座に輝き、プロを相手に堂々と渡り合った。この頃、星野は全国各地の大会でタイトルを総なめにし、アマチュア競技52冠という前人未踏の記録を打ち立てた。
「一つ勝てば、次の大会でさらにいいプレーをしたくなる。それが次の目標になる」。そう語る星野の声には、当時の緊張感と充実感がにじむ。
東北福祉大学――名門の礎を築いたリーダー
高校卒業後、星野が選んだ進路は東北福祉大学。現在ではゴルフ界屈指の名門校として知られる同校だが、入学した当時は、まだその地位を築きつつある段階だった。
90年代、日本大学がカレッジゴルフ界を独占する中、星野率いる福祉大ゴルフ部はその牙城を崩し、日本一に輝く。この結果が同校の飛躍のきっかけとなったのは間違いない。
「彼のプレーには威圧感があった」と後輩たちは語る。試合中でも常に堂々とした振る舞いを見せ、海外選手に対しても臆することがなかった。その姿が後輩たちの目標となり、福祉大には次々と才能ある選手たちが集まることになる。
松山英樹、池田勇太、宮里優作――数多くのトッププロを輩出してきた。その伝統の始まりには、星野の存在がある。そしてその系譜は、今もなお脈々と受け継がれている。金谷拓実、米澤蓮、蝉川泰果といった注目の若手選手たちが、星野が築いた礎の上で新たな時代を切り開いている。
幼少期――父と二人三脚、買い物カゴ2箱分で積み上げた基盤
ゴルフ人生のスタートは中学時代。もともとはサッカー少年だったが、シングルプレーヤーとして活躍していた父親の姿に影響を受け、ゴルフを始めることを決意した。
「父がトロフィーを家に並べているのを見て、自分も挑戦してみたいと思った」。微笑みながら語るその表情には、幼少期の懐かしい記憶がよみがえるようだった。
しかし、父の指導は厳しかった。「やるなら徹底的に」が信条で、自宅の練習部屋で毎日、買い物カゴ2箱分のボールを打つことが日課となった。試合で結果が悪ければ、帰りの車中で仙台まで叱られ続けたという。
「当時はきつかったけど、あの経験がなければ今の自分はない」。その眼差しには、父との日々が自身の礎となっていることへの誇りと、ただ感謝だけでは語り尽くせない想いが感じられる。
プロへの挑戦――厳しさを超えて栄光へ
2000年にプロ転向を果たすが、デビューから5試合連続で予選落ちを喫し、プロの厳しさを思い知らされた。
「何度も壁にぶつかったが、それを乗り越えた先にしか本当の勝利はない」。そう語ると、遠くを見つめるような表情を浮かべた。
03年、「中日クラウンズ」で待望の初優勝。優勝スピーチでは、努力が報われた喜びから涙をこぼした。その後、08年の「UBS日本ゴルフツアー選手権」では5打差をつける圧巻の勝利を挙げ、日本のプロゴルファーを代表する選手となる。
ゼネラルプロデューサーとして描く未来
現在、スクランブルゴルフチャンピオンシップのゼネラルプロデューサーとして、新たな挑戦を続けている。「スクランブル形式は、初心者から上級者まで楽しめる。ゴルフの魅力をもっと広げたい」。その言葉には、彼がこれまで築いてきた経験と、新たな未来への期待が詰まっている。
星野英正という存在が描く未来。それはゴルフを愛するすべての人にとって、新しい扉を開くものになるだろう。
この記事を書いた人
MORIYA KIYOSHI
1974年生まれ|埼玉県出身|【経歴】JLPGA → Golf Life(株) → Forever Golf(株) 代表 → いま 日本一ワクワクするゴルフイベントを企画中!